波乗りオヤジとゆかいな仲間たち

さて、かれこれすでに25年を過ごそうというロートル化石のごとくの

Surfing Memory(ストーリー)。

1970年代後半から始まりました我々の波乗り人生ですが、

別にこれといってたいしたことをしていた訳じゃありません。

はじめはもちろんカッコよさめというだけで、センパイにつれていってもらったのが初めて。

元々は宇宙戦艦ヤマトの波動砲みたいなリーゼントしたセンパイが、

いつのまにかヒゲとさらさらの長髪.....。おもわずカッコイイナ!っておもった!

そのときは海に入っているセンパイが、別の次元の人みたいで衝撃を感じたもんです。

でもって、こっそりセンパイに追いつくべく、涙のストーリーが始まるわけですな。

忘れもしないFIRST BORD&TRYの思い出。

とりあえずってんで、まずは板を確保しなくちゃ、ってわけで、友達とハコスカGT-Rに

無理矢理スキーキャリアつけてroute 20 chofu! おっとっと、ちがった、route 134...。

(余談ですが、このときなんと左側のキャリアには、フォークギターがくくられていたのです。赤面......)

夏の終わった湘南は、もちろん今と違ってすでにガラガラ。

最初の板はあのYUMINGの曲にもある、創業100万年の化石ブランド、「GODDESS」で

ぼろぼろガムテープレロレロに巻いて、当時2万5千円というひどい代物でした。

これはもちろん素人に対してちょっと「あまりにも的」なもんですな。

「これってさあ、はじめての人だったらテイクオフするのに丁度いいんだよねえ」

と、鼻毛かヒゲかわからない毛をフワフワさせながらお得意口調です。

何が丁度いいんじゃバカモノ!


当然鼻が20センチくらい高くなってる、自慢しいのスタッフは何も教えてくれません。

他に何が必要なのかとか、ルールとか。知らないこちとら、

張り切っちゃってそのまま辻堂へ走ります。

ちょっと秋風が冷たそうですが、そこは若さ(バカさ)!

そんなわけで、しかたなく辻堂でfirst tryです。

ワックスのこともパワーコードのことも知らずに。

先日センパイにつれてもらってった時を思い出し、いわゆるパドリングのスタートです。

なんでこんなに滑ってしまうのか、考えもしませんでした。スキーはしてましたから、

ワックスはもちろんボトムに塗りたくります。デッキに塗るなんてことはクリヤマの

脳みそほどにも思いつきもしなかったし、考えませんでした。しばらくするとこすれて、いたい

けな乳首からは血が吹き出し始めました。

ただ寒いので1回あがってナイロンジャンパーきて海に入ったら、湘南ローカルに

心配されました。その前海でウェットスーツを我々は、ナイロンのカッパ上下と、

無謀にも勘違いしていたのです!

そのころのローカルはとってもフレンドリー(先のスタッフとは雲泥の差です)で、

その後来る湘南ローカル組のような悪徳ならず者集団ではありませんでした。

「それ、何?」

「あったかい?」

最後は「大丈夫?」とまで声をかけてくれました。

紫色の唇で歯をがくがく言わせながら、

「ええ、まあ」 うそこけ〜〜。

そのまま、うちへ帰ったら速攻で風邪引いて、2日ほど寝込んでいた、

ってのが最初の思い出です。

その後、平日はバイト優先で、陸サーファー気取ってファーラーホップサックナンぞを

恥ずかしさもわからずはいていたわけです。

低気圧がくればちょっと湘南へ。

行ってみて波が悪けりゃ、しょうがねえなあ。じゃあ学校へ。

そのころミーハーサーファーとしては、スキーもやっていたわけで、学生ツアーの

スタッフになりました。最初フリーダムスキーチームに入り、それが都内でも3つの指に

数えられるサンタクルーズに所属すると、夏はサーフィン冬は海へ行かないときはスキーと、

ミーハーの極地を実行しておりました。

まだ流行るまえに作った「なめんなよ」名刺をばらまきながら。

(このあとなめ猫が登場したのです。きっと私の名刺がまわりまわって影響を与えたのはいうまでもありません)


今日は水曜日?金曜日?LET'S GO 「ROPPONGI」!

ところは高速下、俳優座のちょっと先、フランスベットの地下にあります、その名も

レオパードキャト、いわゆる今で言うヒョウ柄の親分のことですな。

当時はキサナドウ、のちの(ナバーナ)のこってすな、レキシントンクイーンなどとともに、

日本のROPPONGI文化第2次啓蒙世代の頃です。

いま巷でのパラパラ?、同じようなもんです。

チャチャという(あのお笑いコンビではないですぞ)エキセントリックなステップで

It's the same old song.やlove machineなんぞを踊っておりました。

特にロング・トレイン・ランニングがかかると野獣と化しておりました。

ステップエリアの一番前のボックスにそろいのジャンバーは圧巻でしたな。

あのころチークはナンだっけ?chenge the worldじゃなかったはずだし...

(もちろんモームスなどではない)ビールはもちろんバドワイザー。たばこは、

まだ海外旅行のおみやでしか手に入らない「ガラム」なんぞをパチパチ音を

言わせながら吸っておりました。

写真は、サンタクルーズのパー券とレオパのパー券です。貴重ものですな。

そのまま、朝まで踊ってそれじゃどうする?

腹減ったな。じゃあ、交差点の地下鉄入り口脇の吉野屋でがっちり牛丼食ってさあ海だ。

第3京浜から横浜新道のPAで待ち合わせ。あのころはきったねえPAでうどん食って

待ってる友達がいたっけか。それってアカベー?

よく一人で朝3時にでて辻堂の駐車場で仮眠して日の出を待っておりました。

(当時は24時間ただで辻堂の駐車場は入れたよい時代です)

すると大分明るくなってから、車のドアをノックする輩が。

何者だ!と目をこすりつつよく見ると、レイヤーのギャル(うう・死語だ!)二人!逆ナンか?

と思うまもなく、「ファイン編集部ですけど、ちょっとよろしいですか?」

ってんで、でましたのが、当時泣く子もだまる、サーファーボーイ&ガールズ御用達

(恥ずかしい....)

ファインだったわけです。それも第1回サーファーズカタログなんという、

お涙ものの企画らしく、記念すべき車編とファッション編でオヤジは登場したわけですな。

当時サーファーはみい〜〜んな、同じカッコしてましたなあ。

私は学生時代新宿にあります、西武新宿線ホーム下にありました、アメリカンブルバード

「TARO'S HOUSE」というどうみても、アメリカンカジュアルからは縁遠いお店で学業そっちのけで

アルバイトをしておりました。

(先日生まれて初めてチャリンコで歌舞伎町を走りました。なつかしさのあまりTAROへ行ってみる

と、全館改装とのこと。とりあえずTAROもつぶれたそうです。

我々の今は亡き友人、ムッキーもここのスタッフでした。ちなみにこの店では、kuri、bokiもいっしょに

バイトしてました)

結局これがきっかけでその後の人生の行き先を決めるきっかけになったのです。亡くなった父が

山ほどもってきてくれた、大手大企業への道を蹴って進んだアパレルを経て、厄年もおもいっきり

渦中で、もがきにもがいて今に至ったこのおやじ............人生わからんもんです。

もしあのときウルトラ縁故の某企業へ行っていたら........、

イヤイヤ、過去は振り返るまい!

振り返るのはおやじの波乗り文化だけにとどめよお〜〜〜〜っと!

先の話しにもどりましょう。タローの並びにホークサーフボードというショップがありました。

(原宿チャーリーの系列ですな)

そのときの2代目店長がKAZさんで、今をときめくMOMENTS SURFBOARD FACTORYの

オーナー兼シェイパーです。以後20年以上お世話になっておりますです。

KAZさんもキャワベの髪のライバルです!?

ハイ。我々の写真にはよく写ってますね。ただし、KAZさんもあの当時はシェイパーと

いってもまだ若手でしたから、かなりアヴァンギャルドな板がズラリです。

シングル・ツイン・トライ・クオード・名称不明4枚5枚は当たり前! そしてこれはすでに歯だ!

なんと7枚羽根。海でのるとテールが重すぎてふらつくとか、沈むとか噂しきり!

決して冗談グッズではありません。もちろんノーズはウルトラニードル!

ナ-イフみたいにとがってはあ〜.......

それはそれは過激なノーズでした。

いまだに3角形の意味すらよくわかっていないクリにしてみりゃとんでもハップン!歩いて6分でした。

そんな板で湘南、千葉、新島と果敢にアタックしておりました。

一年中海で塩水に浸っておりました。今とは違って冬だってまじめに海に行っておりました。

(そう考えるとうえのくん達おやじチームはすごいですな)

一度湘南で84年2月頃、一人で入った馬入で丁度潮の変わるころ、お天気も薄曇りから、一気

に真っ黒になってゆきました。あれよあれよというまに、一気に周りは雪景色。

いつのまにやら横殴りの猛吹雪です。気づくと波待ちボードのインフィニティロゴ

∞はもうみえません。

(カマタのザ・サーフで大々的に扱っておりましたが、くしくも海行き前に自宅前にて、

VWのルーフより盗難にあってしまいました...)かじかむ手で積もった雪を払うとき、嗚呼!!

「俺はこんなところで、一人で一体何をしているんだ!!」まわりの大学生は着飾って、

楽しく振る舞っているのに、こんな前も見えない中で何をしているんだ!と思ったモノです。

ただよく考えてみると、ワシもいったん街にもどれば、当時のトップクラスのミーハー街道を

ひた歩んでいたわけで、何も自分をそこまで卑下することはなかったんですな。

(要は日本人は演歌好きってこってス!なんのこっちゃ!)

coffee time

とまあ、学校もいかず海はまじめに通っていたおやじではありましたが、冬もちゃんと行っていた

その名残がサーファーズイヤー(正式名称 外耳道後天的狭窄)です。

これは医学界でもまだよくその内容がよくわかってオランという奇病ですな。

物の本、並びにこの病の大先輩で、唯一のオペ経験者のセタクンによりますと、

この病は水面0メートル当たりをうろつき回っているサーファー特有のモンらしいです。

それも夏冬の水温差が大きい地域限定とのことですので、海女さん、ダイバーやハワイ

・バリなどにはいないそうですな。日本やポルトガル、ウエストコーストのように、

さっむ〜〜い冬の海があるところで発症例が多いらしいです。


数年前、当家息女がまだ幼稚園前の時、風邪を引き病院につれてゆきました。

小児科は逆に他の病気を移されるおそれがあるとのことから、近所の耳鼻咽喉科に

でかけたのです。娘の診療が終わり、何げに耳クソでもとってもらおうと思って

自分もみてもらったのです。(通常綿棒などではとれない、とてつもない邪悪な耳クソが

医師の手にかかると、なんでこんな大きいモノが入ってるんだ!!

というくらいきれいにとれてしまうのです)

するとセンセイが「あー、お父さん、違ってたらスンマセンナ。

私もこっちの専門ちゃうんやけど、海とかでなんかされてはります?」

(このへん大阪弁にイントネーション変換してお読みください)

このときはまだ、波乗りやってたなどと人に言えない体型に変貌していたわけでは

ないので、私はすかさず、ちょっち自慢気に

「ええ、これでもサーフィン20年以上やっております!」

と元気に答えました。

すると「あーなるほど!典型的なサーファーズイヤーですわ。」

えっ!!??何だって!!??

サーファーズイヤー??クリに言わせりゃサーファーの年??波乗り強化月間ですか?

と不思議そうに・純朴で・アホズラで・首をかしげるクリの姿が目に浮かびます。

以前セタ君のオペの話を人ごとだと思っていた私はガクゼンとしました。

「これですわ」とスコープを耳に差し込まれモニターを私に見せてくれました。

もう一台のスコープを看護婦の耳に入れ

(なんかエロチックですな)

「ホラ、これが正常は耳できれいに鼓膜がみえてまっしゃろ。

お父さんのはコレですわ。」3つの大きなコブがあり鼓膜なんぞこれっぽっちも

みえやしません。これって思いっきりマスイんじゃないの?

誰だって思いますです。こんな現実を見せつけられちゃ「いざ、入院か?」

手術しなきゃダメですか?おそるおそる尋ねる私に

「専門じゃないからはっきりしたことは言えないけど、聞こえないとか、痛みがでる

とかないでしたら、しばらく大丈夫でっしゃろ。でも気をつけにゃあきませんよ」

ゲ・ゲ・ゲ・ゲゲゲのゲ〜〜〜〜!

一度こちらのオヤジテロリストたちも、耳鼻科に行くことをお勧めします。

冬もちゃんと海に入っていたマジメサーファーなら必ず発症しているはずです。

逆になってない輩はちゃんと冬に行ってない陸サーファーだ!

ってことでいいのかな?ちゃんちゃん!

コレを今真剣な顔で、新幹線の車内で書いてます。

通路を挟んで隣の外資系っぽいデキそうなお兄ちゃんがこちらをチラチラうかがっております。

ば〜か!仕事じゃないよ!

君なんかが読んだら腰抜かして、MBAもとれなくなりそうなくっだらない

テキストコピー書いてんだよ!と、心の中で高笑いするオヤジであった!!!わはははは!

さてさて閑話休題ですが、またまた続きマスです。

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